東京オリンピックがやっと閉幕した。
開催期間中、ニュースを観ようと思ってテレビをつけたら、オリンピックをやっている。
違うチャンネルに変えてもまたオリンピック、鬱陶しいと思いつつ別のチャンネルに変えるがそこでもオリンピック。
開催期間中、そんなことが何度もあり、否応なくオリンピックの中継や話題は耳に入ってきた。
柔道、ボクシング、水泳、野球、空手、・・・日本凄いぞ金メダル!
だけどいつものオリンピックの時のような感動はない。全くなかった。
どんなに選手が活躍しようと、コロナ禍という一点だけ考えてもオリンピックは開催するべきではなかった。
オリンピックとコロナ感染増の関連を否定する人もいるが、今回のオリンピック期間中、開会式やブルーインパルスショーの時に、あるいは沿道で声援を送るために密になりながら集まった人たちが溢れかえっていたし、浮かれて街に出る人、オリンピックもやってるからと言う理由で正当化して娯楽のために外出する人も間違いなく増えたと思うし、結果として感染者増にもつながっていると思う。
コロナでなくても今回のオリンピックは様々な問題を炙り出している。
イベントに係る組織委員会幹部の女性差別やクリエイターの障碍者差別も大いに問題だったが、やはり根本はIOC、電通、パソナ、テレビ局の利権であり、国民の健康と命を脅かすことが分かっていても、支持率アップを期待して大会中止を訴えることもなかった菅首相や小池都知事らろくでもない政治家たちの権力欲だ。
菅首相や小池都知事はIOCから表彰されてさぞ大喜びしていることだろう。
「IOCにとって、コロナ禍での強行開催を推し進めた菅首相、そして開催にストップをかけなかった小池知事に対し、感謝は尽きないだろう。しかし、五輪開催中にコロナ感染者は急増。2人の恥ずかしすぎる勲章と引き換えに国民が負った傷はとてつもなく大きい」(スポニチ)https://t.co/ZCfRnMfZkF
— 青木美希 「地図から消される街」8刷決定/新刊「いないことにされる私たち」出版 (@aokiaoki1111) August 8, 2021
だが、二人の「最高勲章」の陰で国民が負った傷は確かに大きい。
大会期間中の感染者数は、東京なんかで検査を抑制しているのにもかかわらず全国で1万5千人を越えてしまい、菅政権は病床を増やそうともしてこなかったくせに、重症にならないと入院させないなどと平気で言い出した。
こんなひどい状況で国民誰もがいつ自分や家族の命を脅かされるかわからないというのに、朝から晩までオリンピック報道で、コロナ関連のニュースはかなり圧迫されていた。
表彰されて良かったなあ、この人〇し野郎どもが!
しかし勿論批判は続けるが、この連中に関しては悔しいがどうしようもない。
残念なのは、今回のオリンピックについて日本のアスリートの側からの主張がほとんど聞かれないこと。
勿論オリンピック開催に反対だからと言って、私は批判をアスリートに向けるつもりはないし、まして誹謗中傷など以ての外だ。
それに仮に自分が若くてオリンピックに出るようなアスリートだったとしたら、何年もその日のために努力してきて出場の機会を逃すなどということはとても心の痛むことだろう。
だから参加したことで彼らを責めるつもりもないが、特に日本のアスリートには、アスリートもゾー・オン・ポリティコン(社会的動物)の一員であるという意識があまりに希薄すぎるように感じる。
何が言いたいかと言うと、自分を表現する場が倫理的に汚れた場だった場合、たとえそこで優秀な成績を収めたとして、それって家族や子供たち、社会の全ての人達に誇れるものではないのではなかろうか、ということだ。
メダルが獲れて嬉しい、参加できて嬉しい、それだけ?
この機会のために、苦しい時でも節制して努力し続けてきて、結果を残せるのは確かに嬉しいことだろうけど、オリンピックに限らず、スポーツイベントは一人で自己完結しているものでもないし、アスリート以外の多数の人達がいてその人達が応援してこそ名誉の舞台に成りうるものではないのだろうか?
つまりそんなアスリート以外の人達が開催に反対し、批判しているような舞台で活躍できたからと言って、アスリートの皆さんは素直に喜べるものなのだろうか?
だから要するに、アスリート一人一人にも、本当にこんなオリンピックの有様で良いのかどうかということを考えて欲しいのだ。
そんなことを漠然と考えていた時に、同じような問題について簡潔に、淀みなく、お笑いの表現を入れながら話してくれるこの人の動画が目に入ってきた。
五輪アスリートに問いたい。
五輪はこのままでいいのか?
アスリートは「競技終わればハイ終わり」でいいのか?#Tokyo2020 pic.twitter.com/KQUlZYRi35— せやろがいおじさん (@emorikousuke) August 8, 2021
こっちはフルバージョン。
必見である。
この中でせやろがいおじさんは、利権構造や政治構造を隠して洗い流すためにスポーツや選手たちが利用されている(=スポーツウォッシング)と言っている。
その通りだと思う。
スポーツ・ウォッシング。
私は初めて知る言葉で、割と新しい用語のようだが、概念自体はナチスが国威発揚のために利用したベルリンオリンピックなど、古くからある考えだ。
スポーツウォッシング【sportswashing:名詞】とは、2018年にオックスフォード辞書に認められた英語の新語のひとつで、国家や団体、人物などが、スポーツを利用して自らのイメージを高めようとしたり、不都合な事実から目を背けさせようとすることを意味する。「事実を隠す(こと)」という意の【whitewash:動詞/名詞】から派生した言葉だ。
引用 https://number.bunshun.jp/articles/-/848246
どんなに選手が活躍しても、その舞台であるオリンピックの背後にそんな金まみれ、権力まみれの汚れた世界がチラつく限り、選手たちは最高に輝けない。
逆に権力側や利権団体は自分たちの汚い有様をスポーツイベントで洗い流しながら、自分たちの欲望を享受するわけだ。
しかしそんな汚い構造も、多くの人達が既に気付いてしまっている。
つまり“汚れ”は完全にウォッシングできなくなってきているのだ。
この汚れに気付いているからこそ、近年のオリンピックは批判を受けているし、今回の東京オリンピックでも開催地の市民やメディアが声を上げてきたわけだが、結果的にIOC、日本政府、東京都には馬事東風、何も変わらなかった。
やはりこの構造を変えるためには、これまで利用される側だった選手たちこそ、このあり方を考え、声を上げる必要があるのではないだろうか?
アスリートが最高に輝くためにも、オリンピックをまともなものに変えていかないといけないし、そのためにもアスリート一人一人がオリンピックのあり方というものをよく考えて、時には声を上げないと結局何も変わらないままではないかと思うわけだ。
それにしてもせやろがいおじさんは素晴らしい、政治家になって欲しい逸材だ。